ベルリン、ヴァンゼ-会議記念館 

日曜日、早朝からQちゃんは自転車レ-スに参加。
私は申し訳ないけど、観戦は遠慮させてもらい、ヴァンゼ-会議記念館の見学をすることにした。
すでに見学したことがあったのだけど、展示が2006年から変わったときいていたし、なかなかここまで来る機会もないので、足を運んだ。



ベルリン南部の湖、ヴァンゼ-のほとりに立つこの館。
実はここは、ドイツの負の歴史上大きな意味を持つところだ。
ここは、1940年からはナチ親衛隊諜報部のゲストハウスだった。


ここに、1942年1月20日、ナチ親衛隊幹部、国家社会主義労働者党幹部、及び各省からの高官15人が一同に会し、すでに計画されていたユダヤ人の強制収容所への移送などが協議され、「ユダヤ人問題の最終的解決」つまりホロコ-ストが決定したのだった。



今ではその会議のことを「ヴァンゼ-会議」と呼んでいて、その館はドイツ統一後は記念館として当時資料や会議の議事録が展示され、いかにドイツが国家をあげてホロコ-ストに関与していたかが克明に記録されているのを見ることができる。



その会議はこの部屋で行われたということだ。


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当時はこのような食堂だったとのこと。

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部屋の中心には、この会議に関する書類(オリジナルのコピ-)が展示されている。






たとえばこれは、会議の招待状。



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1942年1月20日という日付がはっきりわかる。
また、最後には、「Heil Hitler!(ヒットラ-万歳!)」とも。


こちらは会議の議事録。


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ちなみに、会議の進行は、国家考案本部局の局長、ラインハルド・ハイドリッヒが務め、議事録係は、彼の部下で強制連行のエキスパ-ト、アドルフ・アイヒマンが担当した。



目に付いたのが、ユダヤ人観光客のために、ヘブライ語での詳細な説明パンフが別途作成されていたことだ。


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やはりユダヤ人には気を使っているようだ。



その日、ユダヤ人観光客もちょうど来ておられて、熱心に見学されていた。

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何を真剣にご覧になっているのかと、後で見てみた。
それは、議事録の中の資料の一部で、当時のヨ-ロッパでのユダヤ人の数を記した統計だった。


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ナチは、ヨ-ロッパのユダヤ人数を1100万人と把握し、抹殺しようとしていたのだ。
なんて恐ろしいことが、平然と話し合われたのだろう。
ユダヤ人観光客はどんな気持ちで資料に目を通していたのだろうか。


ホロコ-ストはドイツの負の歴史であり、人類の大きな過ちだ。
二度とそれを繰りかえさないために、こういった記念館は非常に重要だ。
ドイツは、自国の過ちの歴史を公に公開し、過去の克服のために国をあげて取り組んでいるのだ。
見学料も無料ということは、それだけ国が財政的にもバックアップしているということ。
ドイツのそうした姿勢にいつも感心してしまう。



さて、Qちゃんのレ-スはどうだったかというと。。

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なんと、今季一勝目をあげていた。


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もらってきたお花が嬉しい。

Qちゃんはスポ-ツ、私は社会見学と、それぞれがベルリンで充実した日曜日だった。





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ベルリンの負の歴史の場所、アンハルタ-駅 

今日はベルリンに仕事ではなくコ-ラスの練習に行ってきた。
今月24日に、ベルリン最古のアマチュアオ-ケストラ、OBMとともに、ベルリンのいくつかの合唱団と合同で、ベ-ト-ベンの第九を演奏するプロジェクトがあるからだ。
私達、女声アンサンブル和も参加。なんといっても私達の指導者I先生が、このOBMの指揮者でいらっしゃるのだ。

その練習会場の最寄の駅が、Sバ-ン、アンハルタ-駅(Anhalter Bahnhof)。
駅自体は地下にある。




地上に上がると、昔のアンハルタ-駅の一部が残っている。


ちなみに、1935年当時の古い写真が駅構内に展示されている。
堂々とした素晴らしい建物だ。

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ちょうど、今残っている部分が、昔の写真の中央にある入り口あたりだ。
駅の内部、プラットフォ-ムは今ではサッカ-グランドとなっている。

実はこの駅、ベルリンの負の歴史として知られている駅なのだ。
ナチスドイツ時代、ユダヤ人が強制収容所へと列車で移送されていったことは皆さん既にご存知だろう。
ベルリンでは3箇所の駅から、ベルリン在住のユダヤ人が移送されて行ったのだが、このアンハルタ-駅もその一つだった。

1942年6月初め、この駅から、いわゆる老人移送として、ベルリンのユダヤ人がチェコにあるテレジン収容所へと移送されたのを皮切りに、1945年3月末には15000人以上のユダヤ人が、ベルリンの3箇所の駅からこの収容所へ輸送された。

そして、このアンハルタ-駅からは、終戦までに9600人以上のユダヤ人が移送されたのだ。
また、一回の移送人数は50人から100人。計116回の輸送が行われたという。
移送に使われた列車は、ドレスデンやプラハ行きの列車に、2列の3等特別車両を連結したものだった。
出発時刻は6時7分、一番ホ-ムから。
主に年配のユダヤ人が、集合場所から市電やドラックで移送されてきたそうだ。
彼らは通常の乗客と外見は全く変わりなかったが、ユダヤの黄色い星のワッペンをつけられていたので、彼らが強制移送されるユダヤ人だということは、誰もが見て取ることができたそうだ。

ちなみに、移送先のテレジン収容所は「老人ゲット-」と呼ばれていたそうだが、「トランジットゲット-」とも呼ばれていたとのこと。つまり、いわゆる経由地であり、そこで亡くならなかった人たちは、さらに「東」へ移送されていったからだ。
その行き先は、たいていの場合、アウシュヴィッツだった。


ベルリンでは、1941年10月から1945年3月までにベルリンの3箇所の駅(アンハルタ-駅、グリュ-ネヴァルド駅、モアビット貨物駅)から全部で50000人以上のユダヤ人が移送された。
移送先はドイツが占領した東ヨ-ロッパにあるゲット-や抹殺収容所で、生き残った人はほんの僅かだった。


これらの情報がドイツ語と英語で記載されたプレ-トが、「テレジン収容所への抑留を追悼」として駅跡のすぐ横に立っている。

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左側の白いプレ-トには、移送が行われた日付と人数が記されている。

私はこの駅に来るといつも、強制移送されていったユダヤ人に思いをはせる。
なんという非道で悲しい運命だったのかと。

ドイツの負の歴史ホロコ-スト。
一方で、この過ちを自ら認め、そして二度と繰り返さないために、後世に伝えていこうとするドイツの努力が、ここでもひしひしと感じられる。




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ベルリンで15年ぶりに再会したAさん 

先週、ものすごく久しぶりに京都のAさんからメ-ルを頂きました。
お仕事で急にベルリンに来ることになったとのお知らせ。
日曜日だけフリ-で後はもう、仕事してすぐに帰国するとのことでしたので、ベルリンでお会いすることになりました。

Aさんは、私が初めて就職した京都のドイツ文化センタ-で、私のポストの前任者で、その時は全くお会いしたことがなかったのですが、その後私が神戸のドイツ総領事館に就職した頃に、Aさんも3ヶ月間ほど臨時で翻訳官として仕事され、その際にご一緒いたしました。

15年ぶりということで、ワクワクして宿泊先のホテルにお迎えに。
ロビ-で再開したAさんは、15年前と全く変わってませんでした。

早速、路面電車で町中まで移動しました。

ベルリンド-ムあたりからフンボルト大学、オペラ劇場を過ぎ、いろんな話をしながら、ぷらぷらと、ウンタ-デンリンデン通りを歩きました。
フリ-ドリッヒシュトラ-セを少し下って、ジャンデルメンマルクト辺りに行って、ランチ場所を探索しましたが、結局私のお気に入りのカフェ-レストラン、アインシュタインに行くことにしました。
Aさん、パンプスなのにたくさん歩かせてごめんなさい!

そこで食べたのが、こちら。

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白アスパラとフェファリング茸とラビオリ。
量も上品で、なかなか美味しかった。


レストランでもビ-ルを飲みながらいろんな話に花が咲きました。
その後、ベルリンのシンボル、ブランデンブルグ門へ。

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さすがは夏場だけあって、観光客でいっぱいです。
ベルリンは昔クマがいたことからベア-にちなんでベルリンという名前になったので、今でもクマが町のシンボル。
ぬいぐるみを着たクマさんも暑い中お疲れ様です。

ブランデンブルグ門の向こう側は今開催中のサッカ-ヨ-ロッパ選手権のファンマイルになっていました。


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その夜はドイツ・デンマ-ク戦がありましたので、サッカ-ファンがそろそろ集まってきていました。


ドイツナショナルチ-ムの写真入りバスも登場。

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そしてすぐ近くにある、ホロコ-スト記念碑へ。

これは、ナチスによる強制収容所開放60周年記念の年にあたる2005年の5月にできた、ヨ-ロッパで虐殺されたユダヤ人のための追悼記念碑です。
さまざまな大きさの灰色のブロックが並び、中を通り抜けていくと、まるで袋小路の中にはいっていくかのような錯覚になります。
虐殺されたユダヤ人の悲しい運命、やりきれない怒りをほんの少し感じることができるのかもしれません。

Aさんも記念撮影。

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記念碑の向こうにドイツ旗と共に見える球形の屋根の建物は、ドイツ連邦議会。

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こんな風に、ベルリンの町のど真ん中に、ユダヤ人追悼記念碑を建設すること自体が、ドイツ政府のすごいところ。
ここでも、過去への清算を正しい形で行っているのです。
過ちを忘れず、次世代に語り継いでいかねばならないという使命感を感じます。



それから、少し歩きましたが、せっかくなのでベルリンの壁が残っている、ポツダム広場の近くまでご案内しました。

この壁の右側が当時の旧西ドイツ。左側が旧東ドイツ地域でした。


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壁に沿ってある茶色い細い線の部分にずっと壁が続いていたわけです。

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「ベルリンの壁、1961年-1989年」と刻印されています。


そして、壁が構築される前は、ナチスドイツのゲシュタポの基地でもありましたので、今はその部分が野外資料館となっています。

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になみに、壁の向こう側にそびえる、典型的な第三帝国時代の建物。
現在は財務省の建物ですが、ナチスドイツ時代は、ゲ-リングが大臣として君臨していた航空省の建物でした。


それから、少し南に歩いてアンハルタ-バ-ンホ-フ駅までいきました。
子の駅は今は地下にSバ-ンの駅となっていますが、昔は地上に立派な駅があったそうです。
今は入り口部分しか残っていませんが。

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ナチスドイツの時代、ユダヤ人がアウシュヴィッツまで強制移送された駅の一つでもありました。
最も有名なのは、グリュネヴァルド駅。
ちなみに、その駅の17番線ホ-ムから移送されていたということで、今もそのホ-ムは保存され、ユダヤ人追悼の場所となっています。



サッカ-の試合の影響か、電車は珍しく込みこみ。

ホテルの前の駅につくと、目についたのがイチゴ売りのお店。

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日曜日なので閉まっていましたが、なんともかわいいらしいこと。
Aさんは、翌日買いたいとおっしゃっていたけど、ゲットできたかな?



ものすごい久しぶりのAさんとの再会。
お会いできて嬉しかった。
2年前に信じ難いような不幸にご家族が見舞われ、辛い日々を送られてきたAさん。
私はただただ、そっと見守ることしかできませんでした。
今回お会いして、傍目にはお元気にお仕事に励まれているいるお姿を拝見できて、少し安心した私でした。
今頃、飛行機の中かな。

今度は京都で会いたいな。




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